好きなこと、好きなもの
好きなことや好きなものって、大げさではなく、生きていく上での心のエネルギーの源、ソウルフードのようなものだと思います。
特に心が元気がない時には、テレビを消したりネットを閉じたりして、聞きたくない情報をシャットアウトして、好きなものにだけ囲まれて過ごすのが何よりの元気の源だと思います。そうして自分を大事にして元気になったら、他の人の違いに対しても優しく寛容になれる気がします。
わたしは子どもの頃、ガチャガチャとか食玩とかゲームとか大好きだったんですけど、家族が浪費グセがあったから「お金を使うことは悪いこと」と思い込んでいて、なかなか好きなものを好きって言えずにいました。
思春期に入ったら今度はイメージを気にするようになり、好きなものでも「これって言ったら笑われるかも、恥ずかしいかも」と思うものはひた隠しにしていました。
でも本当に恥ずかしいのって、好きなことを堂々と好きって言えないことの方ですよね。
大人になって金銭的にも余裕ができた今というものの、家中ガチャポンやらぬいぐるみやらで溢れています( ー ω ー )
やっぱり抑圧するのはいけませんね、よくわかりました( ー ω ー )
何年か前になんかの記事で読んだあるアメリカの男の子を思い出したのですが、その男の子は掃除機が大好きでいっぱいコレクションしていて、もう部屋中掃除機だらけで(笑)それで、「なんで掃除機を集めてるの?」と聞かれた時に、「人にはみんな好きなものがあるだろ、僕にとってそれが掃除機だったってだけの話さ hahahahaha」と言っていて、めちゃめちゃ幸せでご機嫌そうで、掃除機ボーイ超かっこいい〜と思ったのを思い出しました。
好きなもんは好き、わたしはわたし、あなたもあなたで自由にね〜と言える自分でいられたらといいなと思います。
と、いうことで今日は、午前中に洗濯とか皿洗いとかやること済ませたら、大好きな*豆腐チーズラー油丼を食べて、ゆっくりゲームしてくつろぎます(・ω・)
自分が幸せご機嫌であることを大事にしたいです。
*豆腐チーズラー油丼:すくらんぶるした豆腐に、かけるチーズと食べるラー油をのっけてレンチン、見た目は犬の餌だけどおいしいですよ〜
お試しウェルカム
わたしの家族や友達はみんな言いたいことを何でも口に出して言える強いタイプの人たちで、わたしはそういった人たちが苦手でした。
今よりずっと傷つきやすかったもっと若い頃は、そういうタイプの人たちと極力関わらないようにしていたし、心が弱っていた頃はなるべく避けるようにしていました。
だけどどうしてなのか、避ければ避けるほど、出会う人出会う人がそういうタイプの人たちだったりするんですよね、面白いほどに( ー ω ー )
当時はその時の精一杯で「避ける」とか「関わらない」を選んでいたけど、心が元気になってからというもの、苦手な人の存在のありがたみがわかるようになってきました。
縁があって出会う人たちって、自分にとっての鏡のような存在だと思います。
この人苦手だわ〜、嫌だわ〜って思う相手って、実は自分の中にもある自分じゃあまり好きになれない部分をそっくりそのまま持っている人だったりして、第三者目線だからこそはっきりと見える気がします。
わたしは元々繊細で内向的な子どもだった半面、実は内側にグツグツとした怒りや負けたくないっていう情熱があって、でも自分のそういった部分は出したら抑圧されてばっかりだったから、自分でも抑圧して嫌ってたんだったよなーって気がつかされました。
自分の中にある、ダメな部分だと思い込んでいる部分の良さを認めてあげれてなかったんだよなーと気づきました。
だから最近、ちょっと苦手だなーと思うタイプの人に出会ったら、「お、きたな、お試し。」と思って、どこか自分に優しく寄り添えてない部分があるんだろうなと気楽に受け止めて自分自身を観察しています。
すると面白いほどに、自分で否定しちゃってる嫌な部分と、苦手な人の苦手な部分が、ぴったりとリンクしたりします。
イライラする自分を拒絶してる時には、感情的な人が許せなかったり。
はしゃぎたい自分を否定してる時には、ばか騒ぎする人たちを疎ましく感じたり。
「ちゃんとこの娘のいいところ見れてるの?」
「ちゃんと受け止められてるの?」
「それって本当にダメな部分なの?」
「あなたが見てあげないなら、誰がその娘のいいところを見てあげるの?」
と言われてる気がするんです。
もちろん、自分にとってのいちばん大切な存在は自分だから自分を大事にすることを最優先にして、自分にとって悪い影響しかない場所や人は誰がなんと言おうと避けるし、心が弱っている時は全力疾走で逃げるんですけどね!( ー ω ー )
心が元気な時には、ここぞとばかりに、他の人と自分自身の「いいとこ探し」をして、美点に焦点を当てたいと思います (・ω・)/
自信のつけ方って難しいね
昨日、ある方が「これから新しい生活を始めるよ」ということをお話ししてくださり、何か新しいことを始める時って不安だよね、緊張するよね、自信ないよねって話題になり、それから、それぞれの自信のつけ方について語り合いました。
自信のつけ方って、難しいですよね。特に、本来は家庭内で感じられるはずの「自分は自分のままでいいんだ」という安心感をあまり感じられずに過ごしてきた場合は、なおさら難しいですよね。電気のスイッチみたいに「よし!自信ついた!」なんて簡単にポチッとつけられるようなものでもないですしね。
わたしは子どもの頃は、自信ってすべての原動力だと思い込んでいました。何をするにも絶対不可欠なものだと思っていました。だから、何か新しい行動は自信がなきゃできないものだと思っていたけど、本当はそんなことなくて、自信がないことが行動力につながることもあるのだと、経験を積んでから知りました。
今のわたしは、自信って行動した後にポロっとついてくるものかなって思っています。上手くいこうがいかまいが、行動した後についてくる景品というか、副産物のようなものだと思っています。だから、まずは自分を超えない程度の無理しない程度の新しいアクションを起こすのが最優先だと考えています。それで失敗しても全然オッケーだと思っています。失敗なんてホントはないですしね、ぜんぶ学び。
もちろん、親や友人など周りの人たちから与えられる自信があれば、安心感の中で色々なことに取り組むことができてそれは素敵なことだと思うけど、でも人からもらう自信と自分で自分につける自信とでは、どっしり感が全然違うと思います。(どっしり感としか表現できない)自分でつけた自信は、何か事が起こった時に、揺れることはあってもブレることは決してないと思います。
と、いうことで、そろそろ春になりますし、何か新しいことを始めようと思います。
考えてもわからないから、とりあえずやってみようっていう時期が来ているのを、フツフツと感じています。
一人称で伝える!
昔働いていた飲食店のオーナーさんが、思っていることをものすごくストレートに投げかけてくる方でした。「その考えおかしいでしょ」「変だよそのやり方」などなど。
効率的に作業を進めなきゃいけない時は、その「投げかけ」の言葉が役に立つこともたくさんあったのですが、でも普段の会話の中での彼の言葉は正直きつかったです。
彼の言っていることに全く共感しなかったわけではないのですが、投げかけるだけ、決めつけるだけーで、こちらの事情には全く聞く耳を持ってもらえず、がんばってることさえも全否定されている気分になってしまい、とてもつらかったです。
わたしは今までの人生で、その「投げかけ」や「決めつけ」の言葉にいっぱい嫌な気持ちを感じてきたので、自分が相手に対して伝える言葉はなるべく一人称で伝えるようにしています。(感情的になってる時とかはなかなか難しいんですけど、なるべくは ー ω ー )
何か嫌なことを言われたり、されたりした時でも、「あなたがわたしを傷つけた」ではなく、「わたしは、あなたのしたことで傷ついた」だったら、全部を全部、相手のせいにすることなく、事実をそのまますっと伝えられる気がします。
「わたしは、あの映画はあまり面白いと思わなかった」
「わたしは、あなたの言ったことに同感できなかった」
「わたしは、それが変だとは思わなかった」などなど、
どんな気持ちも「一人称=I(アイ)」で始めると、ただの一個人の意見になって、受け取るも受け取らないも相手の自由になると思います。
そしたら、険悪なムードにならずに大事なことを話し合うことができると思います。
もちろん、気を使いすぎたら何にも言えなくなっちゃうので、それはやめたほうがいいと思うけど、でもやっぱり自分だけじゃなく相手にも感情があるのだから、自分だけ言いたいことを言えればいいというのはちょっと違うんじゃないかなと思います。
ある程度は相手の気持ちも尊重する必要があると思います。
ある程度、言葉に気をつけながら、自分の正直な気持ちをちゃんと口に出すーところまでがわたしのする必要のあることで、それをどう感じるか、どう受け取るかは、相手のテリトリーだと思います。
そこを分けることができたら、お互いがお互いに言いたいことを自由に伝え合えるベストな関係を保てるのかなと思う今日この頃です。
万人受けはしなくていい
自分でもなんでかよくわからなかったのですが、わたしは物心がついた時から世の中に怖いものがいっぱいありました。中でも特に怖いのが人でした。
加えて、「この道は通りたくない」とか、「この素材の服は着たくない」というこだわりがあって、日々感じる不安やストレスが多くて、それでよく癇癪やパニックを起こして泣いていました。
だけど、泣いている時に誰かが側にいて慰めてもらえた記憶はなくて、というのは、わたしがつらく感じていたことは全て目に見えないもので、プラス、周りの大人はとても忙しい人たちでした。
正式な病名があるわけではないグレーゾーンにいる自分のことを理解できる人はいなかったし、理解しようとするための時間はなかったと思います。
それからずっと、心のどこかにぽかんと空いている部分があるのを感じていました。
成長するにつれて、家族や友達から顔や体のことや内向的な性格のことをどうこう指摘されることが増えていきました。
自尊心が低かったわたしは何を言われても「わたしもそう思う」と思っていた部分があったので、何も言い返すことができず、自分の中の何かが限界に近づいているのを感じていました。
中学1年生の時のある出来事がきっかけで、パンパンに溜まっていた涙の袋みたいなものがパーンと弾けた気がして、そこから摂食障害の症状が出始めました。
食べることが怖くて怖くて仕方なくなり、どんどん痩せていき、と同時に、変にハイテンションな自分になっていきました。いつもニコニコ笑って明るくて活発な女子中学生を演じてみたり、逆に、とても攻撃的な言動で自分を守るようにもなっていきました。
周りからは、もうキツイ言葉をかけられることはなくなりました。
派手な友達が増えて、好意を持ってくれる男の子も出てきました。
だけど、どんなにみんなからよく思われても、わたし自身は自分を好きになることはありませんでした。
前みたいに自尊心を傷つけられることは無くなったのに、どんなにたくさんの人から好かれても、空いている部分が満たされる感覚はありませんでした。
その時、ハッキリとわかりました。
わたしにとっての幸せは、万人受けする自分になってたくさんの人から愛情をもらうことではないのだということ。それじゃ、空いている部分は埋まらないんだってこと。
空いている部分は、わたしがわたしのまま、自分らしく生きられない限りは埋まらないし、その自分のまるごとを愛してくれる人からの愛情でないと、満たされないんだということでした。
そう気づいてからも、わたしの心はわたしの意思とは別で生きていて、「さみしいよー」と叫んでいて、その心に振り回されるように、拒食と過食の症状に葛藤する日々でした。
病気が完全に大丈夫になってから約2年、今のわたしはというと、全然万人受けはしません( ・ω・ )
なのに、心は常に満たされているんですよね。
そのいちばんの理由は、おそらく、自分が自分のことを誰よりも先に好きになれたからだと思います。
ずっと自分なんて大嫌いで、周りから愛される違う誰かになりたいと常に思っていたけど、病気になったことがきっかけで、もうそれには見切りをつけてやめました。そして、「自分自身であること」を始めました。「周りの人が何を求めているか」ではなく、「自分がどうありたいか」を基準に、話したり行動したりを積み重ねていきました。
自由に着たい服を着て、やりたいことをやって、言いたいことを口に出していると、雑誌やテレビの中にいる女の人からは、かけ離れていきました。
たまに疎外感というか寂しい気持ちを感じたりもしたけど、どんなに周りから否定的な言葉をかけられたとしても、「そっか、あなたはそう思うんだね〜、でもわたしはわたしが好きなんですよ〜」と言えるようになると、少しずつ、自分のことを誇りに思えるようになっていきました。
本当に少しずつですが、自分の存在が愛おしくなっていきました。
自分が自分のことを好きになって、自分を持って生きていたら、今度はその自分の全体を愛してくれる人が現れました。
中学生のわたしは、どんなにたくさんの人から好かれてもいつも孤独だったのに、今のわたしは自分からの愛情と、たった一人の人からの愛情で、どんなことにもまずは自分一人の力で取り組んでみたいと思えるほど、心が満たされています。
きっと、中学生のわたしもずっと心のどこかでわかっていたんですよね。
たった一人、自分の全てを認めてくれる人がいれば、それで満たされるってこと。そのたった一人の人が欲しかっただけなんだよなぁって、そう思います。
わたしは個人的に、無理してまで人に好かれようとするのは、本当は誰にとっても必要のないことだと思います。
もちろん、ある程度は他の人たちのことを気にかける必要はあると思うし、配慮する必要もあると思います。だけど、そこに無理が入ってしまったら、それは軸が他の誰かになってしまっていて、つらい生き方になってしまうと思います。
彼と一緒に暮らし始めて早いもので1年が経ち、先月、家族になりました。
わたしにとって、生まれて初めてできた「心の家族」でした。
正直わたしは、心に居座っているインナーチャイルドが安心感からか出てくるようになり、しょっちゅう泣いたりわめいたり癇癪をおこしたりしてしまうし、こだわりが強いのは相変わらずだし、端から見たら面倒くさい奥さんです。
だから、周りがなんと言おうと気に留めないで、逃げないで、真正面から「どうしたの?話し合おう」と向き合ってくれる彼は、つくづく根性据わってる人だなと思います。
わたしも彼のカッコいい部分にはあんまり興味がなくて、普段は見せない裏の顔とか、人間らしい泥臭さとか、そういう奥の奥の方にたまらなく愛情を感じます。
そういう汚くてぐちゃぐちゃな部分までちゃんと見せ合えるこの関係は、ずっと偽りの自分でいないと愛情を感じられなかったわたしにとって、何にも変えられない、何よりの幸福なのです。