アナログにっき。

自分らしく自由に生きる専業主婦。2人暮らし。考えることと書くことが好き。

常に正しくいる必要ってあるのかな

 

わたしの母は、「でも」と「感謝の気持ちは忘れちゃいけない」が口癖でした。

学校でのつらかった出来事を話しても、返ってくるのは「でも感謝しなさい」だったり、自分でもよくわからない寂しさと悲しい気持ちでいっぱいだった時には、「感謝の気持ちが足りないから」と言われたこともありました。

母の言うことはいつも正しくて綺麗で、非の打ち所がないくらい正しくて、だけど、傷ついている時のわたしの心には響きませんでした。

子どもの頃のわたしは頭ではいつも感謝していましたが、心の底から感謝の気持ちが湧いてくる感覚を覚えたことはありませんでした。

 

「つらくても悲しくても感謝感謝」な環境で育ったので、わたしは絶対的に正しくて綺麗なことに対して、若干のアレルギー反応があります。

アメリカに留学していた際にカトリックの街に住んでいたことがあったのですが、合わなくてすぐ別の場所に移りました。

絶対的に正しい人や物事って、四方八方から光が当たっている気がして、本心が見えなくてなんだか寂しいんです。

もちろん、どんな時も誰に対しても誠実でいられる人ってすごいなぁ、素晴らしいなと思います。人として絶対に超えちゃいけないラインや見失ってはいけない道理があるのもわかっています。

けど、その超えちゃいけないラインって、常に正しくいなきゃあっさりと超えてしまうものなのでしょうか?正論より人間の気持ちの方を大切にするべきシチュエーションって、結構多い気がするんです。

人って、おなかのいちばん深いところに根っこが張ってさえいれば、常に一本筋の通った正しい自分でいる必要なんてないと思います。

 

わたしは13歳で摂食障害になってから「もう大丈夫」な状態になるまでの約10年間の間は、全然正しいとは言えない自分でなんとか生きてきました。

全然優しくなんかできなかったし、笑えなかったし、周りに迷惑がかかるような行動もしたし、ダメだとわかっていても汚い言葉を使ったり。

「わたし何やってるんだろう」って、惨めで虚しくてみっともない気持ちをいっぱい感じながら過ごしてきました。

でも、そういう風にして、正しくいられない自分を身を以て経験してからは、同じように正しくいられなかった他の人たちのことをゆるせるようになりました。

両親のことだってそうです。

母も父も世間体一筋でいなきゃ保てなかった部分があるんだろうなって思いました。

2人とも田舎の狭いコミュニティで育って、大きなプレッシャーの中で暮らしてきて、わたしの心に向き合う余裕はなかったんだろうな、大変だったんだろうなって。そんな中で家事も仕事もしてくれて、学校に行かせてくれて、そこは本当にありがとうって思います。

そんな気持ちが、自然に湧いてくるようになりました。

それに、わたしが多少ポーッとして生きてても人の道を外さないでいられるのは、絶対的に正しいことだらけの家と学校で培われた部分があるからなのだとも思います。

 

わたしは、嫌な自分になって惨めな気持ちを感じる経験をすることができて、ホントよかったなって思っています。

正しくいられない人に対しても受け止めたいっていう愛情を持てるようになれたし、何より、もうカッコ悪い思いをしてでもいいから自分が本当に生きたいように生きようと腹が据わりました。

人間らしさを求めていきたいと思うようになりました。

人として見失ってはいけないものを根っこの部分に持ったまま、人間として生きて、人間としてしんでいきたいです。

 

 

この記事を書いていて思い出したのですが、前に通っていたカウンセリングルームに、当時のわたしと同じ摂食障害に苦しんでいて、物を盗る癖がある子がいました。(摂食障害と万引きは根本的に求めているものが一緒なので、並行して発症することが結構多いそうです)

周りからどんなに脅されても諭されてもその癖がなくなることはなく、いよいよ危ないかなという時に、ある人がその子に対して「刑務所に入っても会いに行くからね」と言ったことがきっかけで、以来、パタリとその癖がなくなったそうです。

人を変えられるのは正論ではなく、結局、愛情だけなのだと感じた出来事でした。